台湾北部・台北市の道路、市民大道にある瓢箪型の玄関の書店、「漢声巷」で売られているものを、店主の黄永松さんは「栄養剤」だという。「漢声」雑誌という文化の「栄養剤」で東洋の民間芸術を守り、伝承しているのである。
台湾初の現代的ドキュメンタリー映画、『上山』(1966年)は20歳あまりの男女3人を追った。監督を務めた陳耀圻さんによると、この3人のうち2人は陳さんの後を追うように芸術の道に入った。1人は映画監督の牟敦芾さんでもう1人は黄永松さん。黄さんは28歳の時から文化に大きな夢を抱くようになり、1971年、呉美雲さん、姚孟嘉さん、奚淞さんと共同で英語版の「漢声」雑誌である「ECHO」を創刊。1978年にはその中国語版を世に送り出した。この4人はそのため、「漢声四君子」と呼ばれた。
黄永松さんは今年、第9回総統文化奨(賞)の「文化耕耘奨」を受賞。同賞では、「黄さんは1970年代に『漢声』雑誌、『漢声小百科』を創刊し、台湾の民間文化の発掘と整理に力を尽くすことで社会に郷土の意義と民間芸術の美しさをより理解させた。そしてその過程において出版や編集の分野で多くの優れた人材を生み出した」と称えた。
「漢声四君子」は当時、まず英語版の「ECHO」を創刊して「横向き」の文化交流に着手、東西文化のバランスのとれた交流を出版理念とした。呉美雲さんが「ECHO」と名付けたのは、発信した声が幅広い反応を呼ぶことを期待したからである。1978年、台湾の高度経済成長が始まった当時、黄永松さんと呉美雲さんはそれまでとは逆に、台湾の読者と対話する必要性を感じて中国語版の「漢声」雑誌を創刊した。同雑誌では「縦向き」に伝統と現代を結び付け、民間芸術や伝統的な風習の発掘、文化の伝承、歴史、デザインと装丁などの研究に努めた。
さらには5種類、10ジャンルに分類した56の民間文化「遺伝子バンク」を立ち上げて、伝承が途絶えていた民間の手工芸を多くよみがえらせた。最も話題となったシリーズは「中国結」。1981年には「中国結」ブームを引き起こした他、フィールドワークを通して「中国結」の基本的な結び方11種類を見つけ出した。「中国結」という名称も黄永松さんによるものだった。
黄永松さんは長年、自分を「胴体」に例えている。これは中国演劇の著名な研究家だった故・ 俞大綱氏がかつて黄さんに告げた言葉からくる。それは、「伝統は頭のようだけれど、みな後ろに置いていく。現代は2本の足のようで、懸命に前へと進んでいく。伝統と現代、つまり頭と足は離れていってしまう」という言葉。
黄永松さんは自分が「胴体」として、頭と足をつなげるだけでなく、民間の文化を代々伝えていけるよう希望している。彼の経営する書店、「漢声」の玄関の瓢箪のように、「長く続く蔓に次々と実をつけるが、それらは全てつながっているように」。黄さんは、現在の文化の発展は古今東西の文化が融合、交流したものだが、自分たちの根源を忘れてはならないと説いている。
1990年代から黄永松さんと「漢声」雑誌を出版する人たちが取り組んでいる中国大陸での事業も大変高く評価されており、台湾の文化的パワーが世界の華人社会に啓発と影響を与えていることがわかるのである。